2006年08月12日

「富田メモ」 スクラップ

自分の覚書のため、関連記事を集めてみた。

7月20日 日経新聞 1面(←第一報)

7月20日 読売新聞 「昭和天皇、A級戦犯合祀に不快感…宮内庁長官メモ」

7月22日 東京新聞 特報 「富田メモ 天皇『発言』の重み」

7月22日 東京新聞 社説 「昭和天皇発言 『合祀問題』への一石」

7月31日 朝日新聞 社説 「靖国とA級戦犯 天皇の「心」をどう読むか」

8月 4日 東京新聞 特報 「『富田メモ』根本を問う」

8月 8日 朝日新聞寄稿 麻生太郎 「靖国にいやさかあれ」

8月 8日 外務大臣会見記録 「靖国神社」

8月12日 東京新聞 特報 「『鎮霊社』からみた靖国神社」

8月12日 時事通信 「靖国合祀可否を研究=陸自、イラク派遣前の03年-『組織的関与は困難』」

*以後、記事発見時、ここに追記*


富田メモには直接関係ないが。
子供向けの解説なのに、靖国問題をよくまとめてあるページ
    ↓
2005年11月8日 読売新聞 子どものニュースウィークリー
外交問題もからみ論議 首相の「靖国神社」参拝

<記事転載は続きの中>

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7月20日 日経新聞 1面

昭和天皇、A級戦犯靖国合祀に不快感・元宮内庁長官が発言メモ

 昭和天皇が1988年、靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に強い不快感を示し、「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」と、当時の宮内庁長官、富田朝彦氏(故人)に語っていたことが19日、日本経済新聞が入手した富田氏のメモで分かった。昭和天皇は1978年のA級戦犯合祀以降、参拝しなかったが、理由は明らかにしていなかった。昭和天皇の闘病生活などに関する記述もあり、史料としての歴史的価値も高い。 (07:00)


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7月20日  読売新聞

昭和天皇、A級戦犯合祀に不快感…宮内庁長官メモ

 昭和天皇が靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に関し、「だから私はあれ以来参拝していない。それが私の心だ」などと語ったとするメモを、当時の富田朝彦宮内庁長官(故人)が残していたことが20日、明らかになった。

 昭和天皇はA級戦犯の合祀に不快感を示し、自身の参拝中止の理由を述べたものとみられる。参拝中止に関する昭和天皇の発言を書き留めた文書が見つかったのは初めて。

 遺族によると、富田氏は昭和天皇との会話を日記や手帳に詳細に記していた。このうち88年4月28日付の手帳に「A級が合祀され その上 松岡、白取までもが」「松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々(やすやす)と 松平は平和に強い考(え)があったと思うのに 親の心子知らずと思っている だから私(は)あれ以来参拝していない それが私の心だ」などの記述がある。

 「松岡、白取」は、靖国神社に合祀されている14人のA級戦犯の中の松岡洋右元外相と白鳥敏夫元駐伊大使とみられる。2人は、ドイツ、イタリアとの三国同盟を推進するなど、日本が米英との対立を深める上で重大な役割を果たした。

 また、「松平」は終戦直後に宮内大臣を務めた松平慶民氏と、その長男の松平永芳氏(いずれも故人)を指すとみられる。永芳氏は、靖国神社が78年にA級戦犯合祀を行った当時、同神社の宮司を務めていた。

 昭和天皇は戦後8回、靖国神社を参拝したが、75年11月が最後になった。その理由を昭和天皇自身や政府が明らかにしなかったため、A級戦犯合祀が理由との見方のほか、75年の三木首相の参拝をきっかけに靖国参拝が政治問題化したためという説などが出ていた。富田氏が残したメモにより、「A級戦犯合祀」説が強まるものとみられる。靖国神社には今の陛下も即位後は参拝されていない。

 富田氏は74年に宮内庁次長に就任。78年からは同庁長官を10年間務め、2003年11月に死去した。


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7月22日 東京新聞 特報

富田メモ 天皇『発言』の重み
好みも語らず 側近日記が頼り

 「政治的中立」という大原則から、戦後、天皇陛下の「真意」が伝わってくることはほとんどなかった。先の戦争に関する発言はもとより、昭和天皇は、観戦を好まれた大相撲で、好きな力士にすら言及しなかったのは有名なエピソードだ。それだけに、富田朝彦元宮内庁長官(故人)の昭和天皇の発言を記述したとされるメモは、波紋を広げる。天皇の「真意」が、表に出る重さとは-。

 陛下が公に発言する機会は一年を通じて、たくさんある。まずは国内外の公式行事での「お言葉」だ。新年の一般参賀に始まり、国会の開会式、政府主催の全国戦没者追悼式などで、お言葉を述べる。また、外国から国賓を招いた宮中晩餐(ばんさん)会、逆に陛下が外国を訪問した際の行事でも、お言葉がある。

 元共同通信社記者で宮内庁を担当した静岡福祉大の高橋紘教授(近現代史)は、「戦後の公式行事では、昭和天皇は、主催者側が用意した原案に側近が手直しを加えた程度のものを、そのまま読まれていた。今の陛下は、ご自身の意思をきちんと伝えたいとお考えになり、自ら筆を入れ、全面的に書き換える場合もある」と解説する。

 毎年、春と秋の二回、赤坂御苑(東京都港区)で催される園遊会では、陛下は、招待された各界の功績者と話をする。これとは別に、各種表彰受賞者らが、陛下に拝謁(はいえつ)する機会もしばしばある。こうした場合の発言の多くは、報道陣の取材を通じ、広く伝えられる。

 園遊会や拝謁の際の会話は「あらかじめつくられたやりとりというわけではないが、話題の人との会話なので、政治問題に立ち入ることはない」(高橋氏)。

■宮内庁と調整 記者質問用意

 さらに、誕生日前と外国訪問の前に、記者会見するのも慣例だ。報道各社でつくる宮内記者会は質問を用意し、宮内庁と調整した上で会見に臨む。ただし、憲法に、天皇は「国政に関する権能を有しない」と定められているため、質問内容は陛下の中立性を害さないよう、政治問題とは直接関係のない内容になることが多い。

 一方で、陛下と宮内記者会は、那須の御用邸で「偶然会った」という名目で、散策しながら懇談することもある。高橋氏は、昭和天皇が「雷が怖い」「昔の乗馬の写真はお芝居だった」などと、ざっくばらんに話したことが印象深いと振り返る。が、「宮内記者会の会見などの場で、政治問題について直接的な質問が出ることはほとんどない。仮に質問が出ても陛下がお答えになることもない」。

 しかし、政治的な問題について、天皇が直接、「真意」を語ることがないわけではない。昭和天皇は一九八八年四月の誕生日の記者会見で「大戦のことが一番嫌な思い出であります」と率直に話している。

 また、今の陛下は二〇〇四年秋の園遊会で、国旗掲揚・国歌斉唱について、東京都教育委員の米長邦雄棋士に答える形で、「やはり強制になるということでないことが、望ましいですね」と発言した。宮内庁は「政策や政治に踏み込んだ発言ではない」と説明したが、陛下が国旗・国歌問題に言及されたこと自体が異例で、波紋を広げた。

 とはいえ、こうした発言はごくまれだ。天皇は政治問題に限らず、一般に中立性を損なうような意見を話すことには極めて慎重だ。昭和天皇は好きな力士やテレビ番組ですら、記者から問われても明かすことはなかった。今の陛下も同様の姿勢だ。

 そうした立場上、制約の多い天皇の「真意」を推し量る手がかりは、天皇に仕えた側近が日記やメモなどの形で残した資料だ。

 代表的なものだけでも、「木戸幸一日記」「入江相政(すけまさ)日記」、木下道雄「側近日誌」「牧野伸顕日記(抄)」「昭和天皇独白録」などがある。

 このうち「木戸幸一日記」を除く日記は昭和天皇が亡くなった以降の一九九〇年代に入って相次いで公刊されたが、中でも有名なのは月刊「文芸春秋」一九九〇年十二月号に全文が発表された「独白録」だ。

 「独白録」は、敗戦直後の四六年春の昭和天皇からの聞き書きと、これを記録した外交官出身の宮内省御用掛であった寺崎英成氏の日記、寺崎氏の一人娘であるマリコ・テラサキ・ミラー氏の手記からなる。

 昭和天皇の「独白」部分は、二八年六月の張作霖(ちょうさくりん)爆殺事件から敗戦までの回想で、松平慶民宮内大臣や寺崎氏ら五人が四六年三月から四月にかけて直接、昭和天皇から聞き取りしたものとされる。

 この中で、昭和天皇は日独伊三国同盟を推進した松岡洋右(ようすけ)元外相について、「別人の様に非常な独逸(ドイツ)びいきになった。恐らくは『ヒトラー』に買収でもされたのではないかと思われる」などと生々しく語っている。

 記者会見や外国訪問時のお言葉で、昭和天皇が戦争について「遺憾だ」などと語ることはあった。しかし、戦争の過程や特定の人物評について、昭和天皇自らが話した言葉の記録が表に出ることは極めてまれで、その点でも超一級の資料とされている。

 こうした側近日記や「独白録」に比べ、富田氏のメモの資料的価値はどうか。

 昭和史に詳しいノンフィクション作家の保阪正康氏は「そもそも靖国神社は明治天皇の意思でつくられたもので、天皇が参拝するのは当然だった。それが七五年以降途絶えたのは、A級戦犯合祀(ごうし)が原因と以前から指摘されていた」と話す。その上で、資料的価値について「側近の日記にも、昭和天皇の話した言葉は出てくるが、それは印象を記す形の間接話法がほとんどで、昭和天皇がじかに話した記録は『独白録』以外にはない。しかも、富田メモにある『易々(やすやす)と』とか『それが私の心だ』という言葉は、普通の人が使う言葉と違う強い調子だ。昭和天皇は原則主義の人で、靖国神社には行かないという断固とした意志と心中の怒りが伝わってくる言葉だ」と、昭和天皇の胸中を推察する。

 日大講師で現代史家の秦郁彦氏は「昭和天皇が靖国神社に参拝しなくなった理由については、元側近の回想録などから、これまでもA級戦犯合祀への不快感という見方が定説化しつつあったが、今回のメモでそれが裏付けられた」と評価。今後の波及効果については「学術的な評価とは別に、それを信じたくない人もいるだろう。今後、靖国神社側がどのように対応するか、むしろ、その行方が気がかりだ」と注目する。

 宮内庁は現在、『昭和天皇実録』を編さん中だ。京都産業大の所功教授(日本法制文化史)は「『実録』は、元側近の資料も含め細大漏らさず収集の方針と聞いていたので、このような形で世に出るとは思わなかった」としながら、懸念を示す。

■メモ全体から検証の必要
 
 富田氏がどういう意図で書いたのか、可能な限り生前の本人の意向と関連資料を検討した上で世に出すべきで、このようなタイミングで出てくると、昭和天皇の発言の趣旨とずれた形で独り歩きする危険性がある。この日だけのメモの部分だけでなく、富田メモ全体の中で位置づけないと正確性は期せない」

<デスクメモ>

 かつてヘンリー王子がナチスの軍服姿で物議を醸した英国では、BBC放送の調査で、三十五歳未満の60%が「アウシュビッツ」という言葉を聞いたことがないという。人は歴史を忘れるが、事実を積み重ね、歴史を検証することが、過ちを繰り返さない一番の近道と思う。メモもそんな重要な事実の一つだ。 (透)


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7月22日 東京新聞 社説

昭和天皇発言 『合祀問題』への一石

 昭和天皇が靖国神社へのA級戦犯合祀(ごうし)に不快感を示す発言をしていたとするメモは、参拝を取りやめた「心の軌跡」が読み取れる戦後史の貴重な史料である。「合祀問題」への一石となりそうだ。

 靖国発言のメモの日付は、一九八八年四月二十八日となっている。当時の宮内庁長官だった故富田朝彦氏が、天皇との会話を克明に記していた手帳の中にあった。

 「私は或(あ)る時に、A級が合祀され、その上、松岡、白取(原文)までもが」「だから私(は)あれ以来参拝していない。それが私の心だ」

 発言メモの核心部分である。個人名は、日独伊三国同盟を推進し、A級戦犯として合祀された松岡洋右元外相と白鳥敏夫元駐伊大使、とみられる。

 昭和天皇は、戦前は年に二回ほど靖国神社に参拝している。主に新たな戦死者を祭る臨時大祭のときだ。戦後も八回の参拝記録がある。七五年を最後に参拝は途絶えた。

 靖国神社には七八年、極東国際軍事裁判(東京裁判)で「A級戦犯」とされた東条英機元首相ら十四人が「昭和殉難者」として合祀された。

 昭和天皇は、A級戦犯の合祀以降は一度も参拝していない。その理由について、公式の場では黙して語らなかった。

 参拝をやめた背景について、専門家の間でもさまざまな憶測を呼んだ。代表的なのは▽A級戦犯合祀説▽七五年の三木武夫元首相の参拝を機に激しくなった「公人」「私人」論争に巻き込まれない-の二つだ。今度のメモの発見によって、A級戦犯合祀説を裏付けている。

 また、A級戦犯の合祀によって、靖国神社は慰霊だけでなく、政治的な施設に変わってしまった。

 先の太平洋戦争の責任論をうやむやにし、対外的には侵略などへの反省をしていない、と批判される原因になっている。

 さらに、小泉首相の毎年の参拝によって、より政治性を増し、賛否で国論を二分し、近隣諸国との外交行き詰まりを招くに至った。

 昭和天皇の思いとは、かけ離れた存在になったといえよう。

 靖国問題の解決のために、A級戦犯分祀(ぶんし)や、靖国神社とは別個に国立追悼施設を建設するなど、いくつかの案が挙がっている。

 遺族や国民がわだかまりなく、先の戦争の犠牲者の霊を慰め、平和を祈願するにはどうしたらいいか。

 国民自身が考える問題であることを、昭和天皇の発言メモを読んで、あらためて思う。


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7月31日 朝日新聞 社説

「靖国とA級戦犯 天皇の「心」をどう読むか」

 昨年5月、北京の清華大学で学生たちに話をしたときのこと、ある学生が激しい口調で私に質問した。

 「小泉首相は靖国神社に参拝していますが、かつて中国人を虫けらのように扱い、ひどい目に遭わせた軍国主義の指導者たちに手を合わせ、感謝の祈りでもささげているのか」

 これにはさすがに唖然(あぜん)とした。「いくら何でもそうではない」と説明したが、彼に納得の様子はない。そこで思わずこう付け加えた。

 「首相はともかく、A級戦犯が合祀(ごうし)されて以来、天皇陛下が一度も参拝していないのをご存じですか」

 その瞬間、何と拍手が起きた。約200人の聴衆のうち十数人だったかも知れないが、これで教室の空気が一変した。首相が立てる波風を、まるで天皇が和らげているようだった。

    ◇

 今月、A級戦犯の合祀に不快感をぶつけた昭和天皇の生々しい言葉が、宮内庁長官だった富田朝彦氏のメモで明らかになった。「私(は)あれ以来参拝していない それが私の心だ」と結ばれた発言メモは、天皇が靖国参拝をやめた動機をはっきり裏付けた。

 富田氏から伝わっていたのだろう、実は私も晩年の後藤田正晴氏から似た話を聞いたことがある。それは徳川義寛・元侍従長の証言などからも推測されていたのだが、最近はことさら別の理屈をつけて天皇参拝の中止を説明する人もいた。今度のメモが出てこなければ、見当違いの言説がまかり通っていたかも知れない。

 さて、事実がはっきりしてみると、新たな疑問も浮かんでくる。

 「戦争の全責任を負う」と、一度はマッカーサー元帥に申し出た昭和天皇だ。そうならなかったのは、東条英機元首相らが一切の責任を負ったからではないか。それなのに、A級戦犯の合祀は許せないとか、参拝をやめたなどと、人情として言えるものか――。

 実は、これまでもそんな心情から天皇の参拝中止を複雑な目でながめてきた人たちがいる。「みな口には出さないが……」と、ある首相経験者も言っていた。今度のメモに反発する人には、天皇の「広い心」を否定したくないという深層心理もうかがえる。

 一方、天皇の戦争責任を鋭く問う側からは、このメモが天皇の責任問題を薄めてしまう、と嘆く声も出る。右も左も同様に困惑の様子なのだ。

 では、昭和天皇はなぜ「合祀」に厳しい態度を示したのだろうか。

 A級戦犯を裁いた東京裁判は、確かに天皇の免責と表裏一体だった。マ元帥の離任に際し、天皇が裁判への謝意を表したという記録も残る。だから合祀が裁判否定につながるのを天皇が嫌ったとしても不思議はないが、それは自らの保身のためではあるまい。

 なぜなら、裁判の受け入れによって保証されたのは天皇の存続にとどまらず、戦後日本の再出発にほかならなかったからだ。天皇は新憲法のもと、日本再生へ自分が新たな役割を担わされたことを誰よりもよく知っていた。

 個々の処刑者に対しては様々な感慨もあったろう。だが、それは私情の話だ。国家の命令で出征し、命を落とした兵士たちの慰霊に、戦争を命じた指導者を交ぜてしまったら、天皇が痛感する戦争への反省も、日本の再出発もうやむやになる。そんな所に参拝はできない。そう考えたのならわかりやすい。許せなかったのはA級戦犯というよりも、その合祀だったはずである。

    ◇

 今年こそ8月15日に参拝するかどうか、小泉首相はいま迷っているのではなかろうか。「それぞれの人の思いですから。心の問題ですから」と富田メモの影響を否定はしたが、果たしてそれですむだろうか。

 もちろん天皇が絶対の時代ではないし、天皇にも首相にも「それぞれの思い」があってよい。だが、天皇は「国民統合の象徴」であるばかりか、過去の経緯から戦没者の追悼に人一倍の責任をもち、その言動が国民に注目される公的存在だ。その天皇が「あれ以来参拝していない」のを公然と無視できるのだろうか。

 現在の天皇陛下もつらかろう。沖縄にサイパンにと、慰霊の旅を責務と心得ながら、靖国神社には足を向けていない。昭和天皇の「私の心」を引き継いでいるのだろう。

 首相は自分の「心」にこだわるだけでなく、天皇の「心」にも思いを致すべきではないか。国民統合の象徴である天皇がわだかまりなく追悼に訪れる場所をどう確保するか。それは「天皇の政治利用」どころか、政治の務めというものだ。

 折しも福田康夫氏の不出馬で、安倍晋三氏が首相の座に近づいた。ミサイル発射の北朝鮮に対し、官房長官として国連決議をリードしたのはその前触れか。だが、「自由と民主主義」の国際連帯に旗を振りたいのなら、その象徴とかけ離れた「靖国」で、わざわざ連帯に水を差さぬ方がよい。

 昭和天皇の発言メモは「中国の横やり」とは訳が違う。小泉さんも安倍さんも、思い切った発想転換へ、これはよい機会ではないだろうか。


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8月 4日 東京新聞 特報

『富田メモ』 根本を問う
首相靖国参拝の是非材料に

 十五日の終戦記念日、九月の自民党総裁選が近づく中、元宮内庁長官、故富田朝彦氏の「メモ」発見の余波が続いている。首相の靖国公式参拝をめぐり、反対派はこのメモで勢いづき、賛成派からは「陰謀」の声すら上がる。結論はともあれ、忘れてならないのは「主権在民」の原則だ。メモも貴重な判断材料には違いないが、公式参拝の是非の土台は国民議論。それが軽視されねばよいのだが-。

 発端は日本経済新聞の七月二十日付朝刊のスクープだった。発見された富田氏のメモに、昭和天皇が靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)に「不快感」を示す発言をされていたという記述があったという内容だ。

 このメモの報道以降、A級戦犯分祀を主張したり、首相の靖国参拝反対を訴える人々は勢いを得た。その一方、参拝賛成派からは「陰謀だ」との声も漏れた。

 また、日中関係の正常化を望む財界関係者が多い中、日経新聞がスクープしたことで「財界の策略」といった詮索(せんさく)も流れた。そのうえ、報道された日が安倍晋三官房長官の「美しい国へ」(文芸春秋)の発売日だったため、総裁選絡みとの憶測も重なった。

 公式参拝の主役である小泉純一郎首相は「それぞれの人の思いですから。心の問題ですから」と富田メモの影響を否定。日本遺族会会長の古賀誠元自民党幹事長は「新たな追悼施設をつくるとの議論が進もうとしているのは耐えられない」と述べ、A級戦犯の分祀が必要との考えを強調した。

 靖国神社広報課は、富田メモの影響について「一切コメントはできません」。分祀論については「分祀できないという姿勢は変わらない」と話した。

 こうした政治的動向はともあれ、富田メモで靖国参拝の是非を断じてしまいかねない雰囲気に「短絡的ではないか」という疑問を抱く関係者も少なくない。

 ■「合祀歓迎」でも大きく報じる?

 首相の靖国参拝を推進し憲法改正を訴える「日本会議」の江崎道朗専任研究員は、今回のメモについて「昭和天皇の公式なご発言ではなく、プライベートなご発言。その場でメモは取れないので、富田長官(当時)が自らの記憶で、主観に基づいて記したものにすぎない」とその資料的価値にも疑問符を付ける。

 さらに「私たちは皇室を尊敬しているが、(天皇を)専制君主のように考えているわけではない」と前置きしたうえで、世論の“思考停止状態”に疑問を投げかける。「仮に、昭和天皇がA級戦犯合祀を歓迎していたというメモが出てきたら、マスコミは大きく報じないのでは? (メモを根拠とした参拝推進論を)天皇の政治利用だと批判するのではないでしょうか」

 A級戦犯で靖国に合祀された板垣征四郎陸軍大将の二男で、日本遺族会顧問の板垣正・元参院議員はメモについて「到底信じられない」と話す。「(首相が公式参拝する可能性の高い)八月十五日の直前にいきなり出てきた。背景に不純なものを感じる。(内容は)私たち遺族が、これまで信じてきた陛下のお気持ちともかけ離れている」

 加えて、報道後の世論をみて「靖国に反対し、平和主義を自称する人たちが鬼の首でも取ったかのようにしている姿は浅ましい」といら立ちを隠さなかった。

 一方、首相の靖国参拝に反対している人々の間にも今回のメモを慎重に受け止める声は少なくない。

 筑波大学の千本(ちもと)秀樹教授(現代日本史)は「富田メモ報道」以降の有識者の発言について「明らかにA級戦犯分祀派による天皇の政治利用の側面が強い」と警戒する。富田メモ報道以降、参拝反対派から「それみたことか」といった言説が流れている現状についても「部分しか見ていない」と疑義を示す。

 ■「天皇参拝への道筋づくりに」

 千本氏は、分祀の実現により「首相の参拝以上に、天皇の靖国参拝を復活させたいのでは。天皇の参拝により、靖国をもっと国家の中にきちんと位置づけたいのだろう」とみる。

 「靖国参拝違憲訴訟の会」東京事務局長の辻子(ずし)実氏も、千本氏と同様の見方をしている。

 辻子氏はこの間の古賀氏らの発言について「靖国神社国家護持法案のような内容で、非常に危険だ。古賀氏らは、首相が参拝しても天皇が参拝しなければ意味がないと考えているのではないか。(A級戦犯を分祀してでも)天皇参拝の道筋を付けることが大事なのだろう」と懸念する。

 自らも戦争遺族である千本氏は「古賀氏ら分祀派や小泉首相は、靖国を『追悼施設』と述べているが、靖国自身は『慰霊と顕彰』と言っている。つまり、靖国は天皇のために死んだ人をほめたたえる施設だ。『靖国で会おう』は兵士たちを死に追いやる言葉だった。国は(戦死者を)追悼する主体になり得ない。追悼は遺族と親しい人々がすることであり、国は徹底的に過ちを反省する主体となるべきだ」と持論を述べた。

 「右の人も左の人も天皇の言葉を自分たちに都合のいいようにとらえて発信し、おかしなことになっている」と語るのは、文芸評論家の富岡幸一郎氏だ。

 「天皇の政治関与に批判的だった報道機関が、天皇も言うのだから首相参拝は考えるべきだと言ってみたり、逆に保守の側が人格からして天皇の言葉と思えないと言ってみたり」

 富岡氏は戦後、日本はA級戦犯に全戦争責任を押しつけてきたとみる。「天皇も国民も主体的に戦争をとらえてこなかったことに根本問題がある」という。

 「A級戦犯の判決が出た時に、天皇は真剣に退位を考えたと聞いている。しかし、情勢がそれを許さなかった。その流れからするとメモの内容は、どういう意味で言われたのか分かりにくい。天皇の公的な立場と私的な気持ちを混ぜて議論されてしまっている」

 ■「心の問題」発言お粗末さを露呈

 東京大学の小森陽一教授(日本近代文学)は、報道のタイミングについて「(首相参拝の)けん制の意味があったとみられても仕方がない」と話す。

 ただ、「このメモで過剰に騒ぐべきではない」と注文を付ける。「天皇の発言がどうであれ、首相の靖国参拝は政教分離にも反するし、個人の意図とは別として、結果的に侵略戦争を美化するということを示してしまう。国民は首相参拝を認めるべきではない」

 小泉首相の「(参拝は)心の問題」という発言については「首相が参拝を個人の心の問題とするなんて、首相が何者かという原則も分かっていないお粗末さを示すもの」と批判する。

 「世論の中でも、首相参拝が外交問題を取るか、個人の意地を貫くかというようにキャラクターの問題として扱う傾向がある。靖国問題はそんな軽い問題ではない。本質論を徹底して、たたかわせるべきだ」

<富田メモ> 富田朝彦・元宮内庁長官(故人)が記録したメモは次の通り。

 私は 或(あ)る時に、A級が合祀されその上 松岡、白取までもが、

 筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが

 松平の子の今の宮司がどう考えたのか 易々(やすやす)と 松平は 平和に強い考があったと思うのに 親の心子知らずと思っている

 だから 私あれ以来参拝していない それが私の心だ

<デスクメモ> 先月「あるベトナム難民一家の苦悩」という記事を掲載したが、読者から「非国民」という感想をいただいた。理由は「アジア人が嫌い」だから肩を持つなという。極端な例とはいえ、こうした問答無用の反応が増えている。そんな時代の風が怖い。市民の議論が社会を守る。その原則はどんな結論より尊い。 (牧)


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8月 8日 朝日新聞 寄稿
麻生太郎 「靖国にいやさかあれ」

靖国神社に遺骨や遺灰はない。あるのは近代の明暗を生きた日本人の集合記憶だけである。だがこれを失うと、日本は日本でなくなる。  
靖国をめぐる論争が過熱し、英霊と遺族から魂の平安を奪って久しい。鎮魂の場という本旨へ復すべきだ。そのためには靖国を、政治から無限に遠ざけねばならない。  
事は猶予を許さない。戦没者遺族の数は全国で15万人と往時の1割にも満たない。戦いに殉じた人々を悼むという本来国家が担うべき事業を一宗教法人に委ね た結果、靖国は支持基盤の衰弱とともに、その存続自体が危ぶまれる状態に陥った。  
靖国は宗教法人であるから、外部の人々は変化を強要できず、靖国自らの決断抜きには何事も進まない。それを踏まえたうえで、以下靖国のいやさかと、 天皇陛下のご親拝の実現を願う立場から私見を述べたい。  
靖国はまず、宗教施設でなくなる必要がある。政教分離原則に照らし一抹でも疑いが残る限り、仮に他に問題がなくとも、皇族方はもとより首相や閣僚の参拝が安定しない。無理に参ると、その行為自体が靖国を政治化し、再び本旨を損ねる悪循環を招く。  
この際、宗教法人・靖国神社は、設立趣旨を共有する全国52の護国神社とともに任意解散手続きをとり、別形態に移ることを呼びかけたい。  
移行過程は多様であり得るが、最終的に特別立法によって靖国を「国立追悼施設靖国社(招魂社)」とする。その際、靖国神社と同じく陸海軍省所管だった日本赤十字社が、講和条約調印後、特別立法で福祉を営む平時の姿に復帰した前例が参考になる。
靖国の場合、祭式を宗教的ではなく伝統的なものとすることで、法人格の変化に実質を与える必要もあろう。元来靖国は、記紀伝承の神々を祀る本来の神社ではない。伊勢神宮以下約8万の神社を束ねる神社本庁にも属したことがない。非宗教法人化は、戦死者を祀る「東京招魂社」として生まれた創建時の趣旨に復することになる。  
また設置法を論じる国会審議において、靖国非政治化という目的のため、慰霊対象者をいかにするかの点につき、合意を得るのが望ましい。ちなみにその時点で教義は既に唯一の判断基準ではなくなっている。  
この過程で全国の護国神社を靖国の支部とし保全し、付設の遊就館は、行政府に管理運営を移管する。  
無論、個々の変更に際し議論は百出するだろうが、そのたびに原点に立ち帰りたい。原点とは、とこしえの静寂の中、英霊と遺族に安息を図ることである。  
財政基盤の確立には、国がその責任を持てばよい。今日靖国を支える崇敬奉賛会は、新法人靖国社の支持母体として存続する。また財団法人日本遺族会は、 その基盤を安定させるため、公益財団法人とすべきだろう。  
ここまでを整えて初めて、晴れて天皇陛下を靖国へお招きできる。英霊は、安堵の息をつくことができる。諸外国指導者にもお越しいただき、246万余の御霊を前 に、近代の転変を偲んでもらいたい。


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8月 8日 外務大臣会見記録
「靖国神社」

(問)8月15日に大臣は靖国神社を参拝するお考えはありますか。

(外務大臣)今日の朝日新聞の投稿に関して、字数が足りない部分があったかと思いますので、靖国神社についての私見をまとめたものをお渡しします。それを読んでいただくと今のような質問は出ないと思います。

(問)この文章を読みますと靖国神社の組織を変えるべきだという話が出ていますが、それは変えるまで参拝しないということですか。

(外務大臣)適切に判断するという今まで申し上げているのと同じようなことを何回も答えていると思います。

(問)今の質問に対して、それから推測してくれということですか。

(外務大臣)今の質問に対しては、今渡したものをよく読んでみてください。少なくとも、参拝すべきだ、参拝すべきではないという話ではなくて、基本的に靖国神社というものの在り方について考えねばならない時期に来ているのではないかということを申し上げています。だから、参拝するとかしないとか、8月15日がどうしたとかいうような話ばかりではなくて、もう少し、そもそも靖国神社というものの在り方自体についてもう一回検討する時期に来ているのではありませんかという話をきちんと自分なりに書いているつもりです。

(問)靖国神社の祀り方は基本的に神道で、そこからまるっきり宗教色を抜くと靖国神社の本質が変わるような気がするのですが。

(外務大臣)靖国神社がどうあるべきかということについては、靖国神社が考えるところであって、何回も申し上げましたように、立法とか行政府から一宗教法人の在り方についてどうこう申し上げることは明らかに越権行為ではありませんかと、ずっと申し上げている通りです。従って今回書いた事も果たしてこれは分を超えているところもあるかもしれないと書いてあると思うのですが、そういった上で、少なくとも今のままの宗教法人のままでありうる間は、少なくとも私人とか公人とかいう話になって、所謂、行く行かない、私人公人という矮小化した話になるというのは避けられない。それは政教分離の話に関わってくるからそこのところは難しいのではないかと。従って宗教法人というものの形を変えるような形にしないと具合が悪くはありませんか。
 思い返せば、少なくともこれは陸軍省、海軍省の施設だったのです。今でも靖国神社は神社本庁には属していない数少ない神社の一つだと思います。従って戦後、陸軍省、海軍省の所管から所謂法人に変わったのは赤十字がそうだと思います。日本赤十字社は確か陸軍省、海軍省の所管だったと思いますが、昭和23年頃にその所管を変えて特別立法で今の赤十字ができたという経緯があります。この靖国神社についても、宗教法人ではなくて、元々は陸軍省、海軍省所属の追悼施設だったというのがそもそもの経緯です。明治2年に出来た「東京招魂社」として確か明治12 年に靖国神社として、別格官幣社に変えたというのが歴史的背景だったと思います。従って、それまでは神社というより一種の靖国招魂社という社だったわけですから、その原点というものを考えると、少なくともその段階でどういうようなお祀りの仕方があるのかというのは、新しい法人で伝統に則られておやりになったらいかがですかということをそこに書いています。

(問)そうすると神道色をまるっきりなくすということですか。

(外務大臣)それは新しい団体でお考えになることであって、私達がそれをとやかくいうことではないのではないかと思います。ましてや新聞社が言うのもいかがなものかということだろうと思います。

(問)まるっきり宗教色を無くすと、今まで言われている独立の無宗教の施設とどう違うのか。「靖国」という名前が残るだけではないかという気もするのですが、この辺の本質的な違いというものは。

(外務大臣)いい指摘だと思います。違いは伝統的な格式に戻ると書いていますので、その伝統的なものをどうされるかは自分達でお決めになれば宜しいと思います。これを従来、明治2年からずっと続けているからこれでいくというのであれば、それはそれでいいのだと私は思います。従って今、千鳥ヶ淵の話と一緒なのではないかと仰いましたが、千鳥ヶ淵に祀られているのは英霊ではありません。戦没者だと思います。元々の経緯を詳しく読まれた上で聞いておられると思うのですが、あの話の元々の最初の3行目位のところから経緯が書いてあると思いますが、そこを読んでいただければ少なくとも靖国神社というものは国のために尊い命を捧げた英霊を祀ることを目的としているのであって、片方は被災された戦没者の鎮魂を目的としていると書いてあって、元々のいきさつが全く違うように作ってあると思います。

(問)今、総裁選も含めて、靖国についての議論は、中国や韓国が問題視しているから当座参拝を見送ると谷垣氏などは仰ってますが、麻生大臣の文書を拝読すると、日本人として日本の国のために亡くなった方をどう扱うかという国内問題として基本的に捉えていると読めるのですが、そういう理解でよろしいですか。

(外務大臣)私は基本的にこれを国際問題だと思ったことは一回もありません。これはずっと国内問題の話であって、政局にすべきでもない。これは政治の問題なのかもしれませんが、政局にする話ではない。ましてや海外から言われたからなんていうのは全くありません。

(問)こちらには宗教法人ではなく特殊法人にすべきだと書かれていますが、その実態は死者を神として祀るという精神的な思いとか、鳥居が残ったり外形的に変わらないということになった場合、名前が変わっても神道における宗教という意味合いが残るかと思われますが、その場合でも宗教法人で無くすことによって、憲法に抵触しないと考えますか。

(外務大臣)宗教法人ではないわけですから、法律的には宗教法人ではない。何の法人にされるかは、新たに内閣府所管の特殊法人にされるのか、厚労省所管の特殊法人にされるのかは検討されて然るべきだと思います。どのような形で今後これをやっていくのかということは新しい法人で考えられるべきなのであって、キリスト教式がいいとか仏教式がいいとか何式がいいとか無宗教がいいとか色々言われるだろうと思いますが、私は基本的にこれまで地鎮祭やら何やらを見た上で、あれは宗教だという裁判はこれまで何回も行われたと思いますが、いずれも宗教というものではないという結論を既に地裁で出しておられて、答は出ているのです。

(問)最近、政調会長がこうした無宗教化の法案の検討のようなことを発言されていますが、大臣としては、どれくらいの時期からこういうものを考えられていたのか。

(外務大臣)1月頃でしたか、天皇陛下のご親拝の話をした時に、一新聞社がえらく歪めて伝えたことがありました。あの頃既に、これはもう少しきちんと、あまりにも飛び飛びに持っている手記の一つだけをぽこっと使われて話をされるというのが、まあ長くやれないのだし仕様がないのかもしれませんが、そういうものをきちんと一回書類にして整理しておく必要があるのではないかと思っていました。一月頃から文章にしようかなと思って、自分なりにこれまでの手記をつないで、正確でないところは調べていました。そのうち、海外からもいろいろ言われるようになりましたので、少しここのところはもうちょっときちんとしないと更におかしくなるなと思ったのが最初です。後は基本的にはこういったものは本来の趣旨というものは、一番の元はやはりこういった新聞記者会見の騒ぎの対象になるべき話ではありませんよ、こんなものは。私は基本的にそう思っています。こういうものは国のために命を捧げた人達に対して、敬意と感謝を持って、そして亡くなられた方々の御霊の永遠の静謐な祈りの場に於いてきちんとお祀りがされる。そして遺族含めて皆が静かに、わんわん言われることなくそこに参拝できる。しかも外国の方達も、勿論日本の政府要人も、天皇陛下は勿論、そういった方々が静かに参拝出来るという環境を整えるにはどうすればいいかというのが、私の基本的な考え方の元です。従って8月15日だとか何とかという話に矮小化するという状況を避けたい。避けるべきだと思っています。

(問)これを読むと全ての前提が靖国神社の自発性のみによる任意解散ということになりますが、これについての大臣の見通しはどうですか。

(外務大臣)南部さんという宮司がいますが、学習院の同窓会の会合の中で、国からお預かりした靖国神社をいつの日か国にお返しするべきということを会合の最初に話していました。

(問)1月頃から書類にしてまとめて発表することを考えていたと仰いましたが、このタイミングに発表した理由は何ですか。

(外務大臣)8月15日より前に発表したいと思っていました。8月15日になってからですと後追いみたいな話になりますから。8月15日の前にしておかないと、次の11日が閣議がないので、今日しかないのかなということです。


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8月12日 東京新聞 特報
『鎮霊社』からみた靖国神社
ひっそり鉄柵の中

 この夏、靖国神社をめぐる論議は新たな段階に入っている。麻生太郎外相は今月、靖国の非宗教法人化と国家管理を柱にした私案を発表。首相らの参拝の是非のみならず「靖国とは何か」という本質論が浮上している。その靖国神社の一角に「鎮霊社」というなじみの薄い社(やしろ)がある。本殿と鎮霊社の違いは何か。なぜ、四十一年前に設けられたのか。目立たぬ社から、靖国全体を逆照射すると-。

 ■どこにあるか知らないねぇ

 「チンレイシャ? どこにあるかも知らないねぇ。社務所で聞いてみてよ」

 靖国神社の参道脇でみやげ物屋を営む初老の夫婦は、鎮霊社についての記者の問いにびっくりしたような表情で目を見合わせた。

 参道を真っすぐに進み、本殿前の拝殿の手前で左に曲がると、こんもりとした木々の中に入る。この一角に鎮霊社はあった。

 参道からは外れているため訪れる人もいない。十平方メートル程度のごく小さな祠(ほこら)だ。屋根は本殿と同じ薄緑色だが、赤さびがかなりついている。鎮霊社の前に立て札があり、こんな由来が書かれていた。

 「明治維新以来の戦争・事変に起因して死没し、靖国神社に合祀(ごうし)されぬ人々の霊を慰めるため、昭和四十年七月に建立し、万邦諸国の戦没者も共に鎮斎する。例祭日七月十三日」

 靖国神社は「本来、国のために一命を捧(ささ)げた人たちの霊を慰めようと」(同神社作成のパンフレットから)、一八六九(明治二)年に「東京招魂社」の名前で建てられた。

 靖国神社は必ずしも軍人・軍属だけを祀(まつ)っているのではなく、沖縄戦で死亡した「ひめゆり部隊」の女学生や学徒動員中に軍需工場で爆死した学徒たちも祭神として合祀されている。

 その一方で、戊辰戦争時に官軍に敗れ、自決した会津藩白虎(びゃっこ)隊の少年兵や、維新の元勲でありながら、西南戦争で明治政府に反旗を翻した西郷隆盛は除外されている。また東京大空襲や原爆に遭った戦災者も同じだ。

 「将来、国を守る基礎をつくるため、国に殉じた人を祀るのが靖国の基本。遺族のために存在しているのでもない」と同神社に近い関係者は指摘する。

 その靖国神社ができてから、約百年後に本殿とは別に鎮霊社は建てられた。ここには白虎隊や西郷だけでなく、イラク戦争の死者など「万邦諸国の戦没者」も祀られているとされる。しかし、それらの人々の名簿はない。

 建立の経緯などについて靖国神社広報課に取材を申し込んだが、「業務繁多で十八日以降でないと回答できない」と言われた。

 代わりに前出の関係者は「賊軍も外国人も同様に祀るのは、人は死ねばみな仏になるという仏教にも影響を受けている」と話す。

 ただ、これは多分に建前のそしりを免れない。出雲大社や太宰府天満宮は怨霊(おんりょう)を鎮めるために建立されたとされる。この関係者は「鎮霊社もこれと同じ。怨霊を恐れ、抑えようとするのは神道の考えの根本だ」と説く。

 ■本殿の祭神と扱い歴然の差

 とはいえ、本殿に「祀られている祭神」とは歴然とした差がつけられている。現在は高さ三メートル弱の鉄の柵で囲われており、近くまで行けない。国籍や人種を超えた戦禍犠牲者の霊を祀るはずの鎮霊社は、なぜか一般公開すらされていない。

 〇一年に月刊誌で鎮霊社を論じた日大講師で現代史家の秦郁彦氏は、鎮霊社が建立された背景に一九四六年から七八年にかけ宮司を務め、A級戦犯の合祀には否定的だった故筑波藤麿氏の存在を指摘する。

 「靖国神社の(最高意思決定機関である)総代会がA級戦犯の合祀を決める七〇年以前に、総代たちと厚生省引揚援護局との間で合祀の根回しがあり、それに気づいた筑波さんがA級戦犯の『収まりどころ』として先手を打つ形で建立したのではないか」

 さらに、秦氏は「筑波さんは宮司の任免権を持つ総代会から合祀を求められ、拒めなかったが、同時に合祀する気もなかった。昭和天皇の意を体していたと考えられる」と解説する。

 筑波氏の死後、後任の故松平永芳宮司の時代(七八年)、A級戦犯は本殿に合祀された。秦氏は「筑波さんを補佐していた祢宜(ねぎ)に話を聞き、A級戦犯は一時、鎮霊社にいたことを確認した」と話す。つまり、鎮霊社が建立された六五年から七八年まで、A級戦犯は鎮霊社に祀られていたらしい。

 秦氏は「鎮霊社は靖国神社が独自の判断でつくったもので、部外者がとやかくいうべきでない。世界中の戦没者を追悼するというのは正論で批判できない」と話しつつ、同神社が鎮霊社への参拝を受け付けていない理由をこう推測する。

 ■『分祀リンク神社嫌がる』

 「(月刊誌で考察を発表した)〇一年当時、自民党内から『A級戦犯は鎮霊社にお帰りいただいたらどうか』という声が出たと聞いている。靖国神社はA級戦犯分祀論との絡みで、鎮霊社が話題になることを嫌がっているのではないか」

 一方、筑波大の千本秀樹教授(現代日本史)は「霊を鎮めるという名前には、天皇に敵対して死んだ人たちがたたって出てこないようにする意味が含まれる。鎮霊社の本来の目的は天皇制、国家に逆らって死んだ人をたたりのないように鎮めることだ」と前出の関係者と同じ見方をとる。

 鎮霊社が国内にとどまらず世界中の戦没者を祀っている点については「対象を広げているところにごまかしがある。本来は天皇のために死んだ人だけを祀る神社なのに、世界平和を祈っているというポーズをつくっている」と語る。

 さらに、靖国が市民の戦争被災者と戦死者を分ける姿勢にも疑問を呈する。

 ■『一視同仁の思想に矛盾』

 「靖国神社は鎮霊社に参拝しなくていいという姿勢だ。なぜ、原爆や空襲の犠牲者が、賊軍と同じ場所に祀られているのかの説明もない。鎮霊社の存在は、天皇はすべての人を平等に愛するという『一視同仁』の思想にすら矛盾する」

 ■過去の参拝 首相訪問はなし

 小泉純一郎首相は、鎮霊社の戦没者も追悼の対象にしているのか。首相は二〇〇一-〇四年は靖国神社の本殿に昇殿し、昨年は拝殿前での参拝にとどめた。過去五回の参拝で鎮霊社を訪れたことはない。

 首相は〇二年の参拝所感では、追悼対象を「明治維新以来のわが国の歴史において、心ならずも家族を残し、国のために命を捧げられた方々全体」「国のために尊い犠牲となった方々」と説明。少なくとも鎮霊社に祀られたとされる「世界各国すべての戦死者や戦争で亡くなられた方々」(靖国神社のホームページ)は追悼対象ではないようだ。

 ただ、神社本殿の「御霊(みたま)」がそのまま首相の追悼対象とも言い切れない。首相は昨年六月の衆院予算委で「A級戦犯のために参拝しているのではない。多くの戦没者に敬意と感謝の意を表したい気持ちからだ」と述べ、追悼対象を微妙に修正している。

 首相官邸報道室は、首相の追悼対象に鎮霊社が含まれるか否かについて「分かりかねる」と答えている。

<デスクメモ>
 「中韓から文句をつけられた」ので「A級戦犯合祀が問題」という議論に首をかしげてきた。やはり、問われるべきは靖国神社とは何か、という本質論だ。それがようやく国民議論の的になってきた。ただ、戦後六十一年。関係者の多くが亡くなっている。事実関係の追跡が困難になっている現実が悩ましい。(牧)


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8月12日 時事通信
靖国合祀可否を研究=陸自、イラク派遣前の03年-『組織的関与は困難』

 陸上自衛隊のイラク派遣で、防衛庁の陸上幕僚監部がイラク復興支援特別措置法成立後の2003年8月、派遣隊員が戦闘で犠牲になった場合を想定し、靖国神社への合祀(ごうし)が可能かどうかひそかに研究していたことが12日明らかになった。研究の過程で、合祀については「(陸自としての)組織的関与は難しい」との意見が出された。
 公務として特定の宗教法人への合祀可否を研究することは、憲法の政教分離に反し、公務員の憲法順守義務に抵触する恐れもある。一方、政府は自衛隊の海外派遣を常時可能とする恒久化法の整備を進めたい考えで、戦闘で自衛官が犠牲になった場合の国としての弔意の示し方について、今後議論を呼ぶ可能性もある。
 政府関係者によると、当時陸幕はイラクに派遣した自衛官が死亡した場合を想定し、遺体搬送や葬儀についての実施要項策定に着手。その際、「襲撃による死亡は戦死ではないか」との意見が出され、靖国神社への合祀の可否が研究課題となった。


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2005年11月8日 読売新聞
子どものニュースウィークリー
外交問題もからみ論議 首相の「靖国神社」参拝

 小泉首相(こいずみしゅしょう)は10月17日、東京(とうきょう)・九段北(くだんきた)にある靖国神社(やすくにじんじゃ)を参拝(さんぱい)しました。首相は年1回の参拝を公言(こうげん)しており、就任(しゅうにん)してから今回が5回目です。靖国参拝の中止を求めてきた中国(ちゅうごく)と韓国(かんこく)は、今回も日本政府(せいふ)に対して強く抗議(こうぎ)し、外相(がいしょう)の訪中(ほうちゅう)を拒否(きょひ)するなど外交問題(がいこうもんだい)となっています。


起源は明治維新

 靖国神社とはどんな神社なのでしょうか。

 起源(きげん)は明治維新(めいじいしん)にさかのぼります。1869年、戊辰(ぼしん)戦争で死んだ新政府側の軍人のために、明治天皇(てんのう)がつくった「東京招魂(しょうこん)社」が始まりです。10年後に靖国神社と改(あらた)めました。「靖国」というのは国を守るという意味(いみ)です。

 特徴(とくちょう)として、一般の神社は神話(しんわ)や歴史上の人物を祭(まつ)っていますが、靖国神社は「国家のために命をささげ、戦って死んだ人」であることです。別格(べっかく)の神社として、戦前は陸海軍(りくかいぐん)が管理(かんり)していました。日清(にっしん)、日露(にちろ)戦争、第2次世界大戦など、日本が近代化の中で戦争をした時、愛国心(あいこくしん)や戦意(せんい)をもり上げるための精神的(せいしんてき)な役割(やくわり)をはたしました。

 ちなみに、明治維新の立役者(たてやくしゃ)の一人、西郷隆盛(さいごうたかもり)は、新政府軍と戦ったので祭られていません。東京大空襲(くうしゅう)や原爆(げんばく)で死んだ民間人も対象外(たいしょうがい)です。


A級戦犯を合祀

 問題点の第一に、「A級戦犯合祀(きゅうせんぱんごうし)」があります。

 A級戦犯とは、アメリカなど連合国(れんごうこく)が開いた極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん)(東京裁判)で、「平和に対する罪(つみ)」、つまり侵略(しんりゃく)戦争を指導(しどう)した罪により有罪になった東条英機(とうじょうひでき)元首相ら28人の被告(ひこく)のことです。

 太平洋戦争は、日本が行ったアジア諸国(しょこく)への侵略戦争である、というのが国際社会の認識(にんしき)です。しかし、靖国神社は1978年、戦争で亡くなった人の遺族(いぞく)らで作る会に確認(かくにん)の上、A級戦犯14人を祭りました。

 「合祀」とは、二つ以上の神や霊(れい)を一つの社(やしろ)に祭ることを言います。靖国には246万人以上が祭られています。

 A級戦犯合祀後の85年8月15日、中曽根康弘(なかそねやすひろ)元首相が「首相としての資格(しかく)で参拝した」と、初めて公式参拝しました。これを受けて、中国や韓国は強く抗議しました。

 亡くなった人の霊を慰(なぐさ)めることは、日本人にとっては自然なことです。しかし、中国は侵略戦争の、韓国は植民地支配(しょくみんちしはい)の被害(ひがい)を受けました。自国民の命をうばった戦争の指導者を祭っている靖国神社を、現在の指導者である首相が参拝するのは、過去のあやまちを全く反省していないようにみえるからです。この反発などで、中曽根首相は参拝を中止しました。


政教分離の原則

 二つ目に、「政教分離(せいきょうぶんり)の原則(げんそく)」を定める憲法(けんぽう)にそむくのではないかという問題があります。憲法は、政治と特定の宗教(しゅうきょう)が結びつくことを禁(きん)じています。

 これは戦争の反省から生まれました。戦前、天皇を生きた神様とあがめる「国家神道(しんとう)」という国策(こくさく)の宗教がありました。「国民は、天皇とお国のために命をささげよ」と、戦争につき進む原動力となりました。だから、連合国は45年、国家神道を廃止(はいし)し、靖国神社は一般の宗教法人(ほうじん)になりました。

 このような流れもあり、首相など公的な立場にある人の靖国参拝は微妙(びみょう)な問題なのです。それは裁判でもあらそわれています。

 今年9月、台湾(たいわん)や日本の戦没者(せんぼつしゃ)の遺族たちが、「政教分離の原則を定めた憲法に違反(いはん)し、精神的苦痛(くつう)を受けた」として、国、小泉首相、靖国神社を相手取った裁判の判決がでました。大阪高等(おおさかこうとう)裁判所は「参拝は公的なもので、憲法で禁止された宗教的活動にあたる」と、「違憲(いけん)」としました。一方で、「私的な行為(こうい)」との判決も出ています。


新追悼施設案も
 これらの問題を解決(かいけつ)するために、政府の中に「A級戦犯は別の場所に祭ってはどうか」という「分祀(ぶんし)」の意見も出ています。しかし、靖国神社は「個別の霊をぬき出すことは、教えの上からできない」と拒否しています。そこで、国立の戦没者追悼施設(ついとうしせつ)を新しく建てる案(あん)も出ています。

 日本は今、戦後60年という大きな節目(ふしめ)をむかえています。読売新聞が「戦争責任」をテーマに10月に行った世論調査(よろんちょうさ)では、「政治や軍事指導者の戦争責任について議論(ぎろん)が足りない」と考えている人が約6割に上りました。「戦没者を祭るのにふさわしい場所」については、「靖国神社」と答えた人は42%と半数にとどまり、国民の意見も大きくわれています。戦争の記憶(きおく)がうすれる中、戦争や歴史を学び、議論を深めることが、靖国問題を乗りこえ、アジアの国々と新しい関係を築(きず)くために重要です。

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